ダルゴナの夢 第一節

真夏の白昼に消えた二人の男女の話

女「私って他人に言われたことすぐに忘れちゃうんですよね。珈琲の泡みたいに。だからほら、さっきの珈琲倶楽部みたいな丁寧に名前や地方ごとの豆の話をされても、あぁそうですか。で終わるじゃないですか。だってそういうしかないじゃないですか。人ってその場しのぎではあるけれど、知ったか振りをできるからさかしいわけで、その知ったか振りをいざ他人に提供されたら、それがいくら専門的で正確であった知識だとしても、それはただの他人の話で片付けちゃうんですよね。」 男「じゃあ、僕が今ほどあなたの話を聞いているということは、僕の耳を通じてあなたの存在を否定する背景なわけだ。」女「不愉快です、否定されるのって。」男「全く、あなたが嫌を言う否定するという行為は、他人に向けられるものじゃないか。なんか違うと思うな、あなたが否定されるというのは自己犠牲によって生まれた霧隠れなんだよ。ほら、あなたはブラックコーヒーには角砂糖を2個ほど入れるけれど、銭湯で出されたコーヒー牛乳に角砂糖を入れるかい。それはまさしくコーヒー牛乳のもつコーヒーを否定した存在を妥協する行為なんだよ。」女「私、銭湯でコーヒー牛乳は飲みません。飲むとしたらフルーツ牛乳です。」男「あなたって小学生の時に給食食べ終わるの最後の方だった人でしょ。」女「学校の給食に出てくるソフト麺ってあるじゃないですか。ある日汁が先になくなってしまって、麺だけ残っちゃったときにそれがゴムの味のすることに気づいて、ずっと食べれなかったんです。だからずっと、給食でソフト麺が出るたびに、人間がゴムを食べる意味をずっと考えてたんです。そしたら前の席の子が立ち上がってもう食器を片し始めていて、でもねその時に、その前の席の子のお尻らへんから、汁の中の具に入ってたうずらの卵が落ちたのみて、私可笑しくなっちゃって、それからうずらの卵見るたびに給食のソフト麺と、その前の子の椅子の下に転がった白い球体を思い出すんです。」男「あなたってうずらの卵に似てるね。」女「それって悪口ですか。ルッキズムの根本をつこうとしてません?床に落ちた食べ物のように、不可逆なことへの展望と憐れみの狭間で、これを拾うのかそのままにするのかの瀬戸際を彷徨ってるような発言ですよ。」男「僕は床に落ちた食べ物は拾って食べるよ。これは決して僕が週一の清掃業務で暮らしているからではないよ。ほら、あなた達が床に落ちたものを食べないっていう理屈って、つまり目には見えないけれど何かがあるという予測じゃないか。それが大量の菌だって誰かの抜け毛だってもう数多にある中のそれらにしかならないんだよ。もうそれって健康論理主義なマゾヒストじゃないか。この世の中って、もうすでに数多にある事柄を自分に取り込もうとする時に、それが害であるが無害であるかっていうものは置いといて、転がり落ちている混沌の塊を拾うか拾わないかなんじゃないかな。時間で換算するんだったら、拾うか拾わないかなんてのは1円を賭けるか賭けないかのゲームなんだよ。不毛な抜け殻たちの混在の上で立ってるのだから僕たちっていうもんは。」女「拾ったものに理屈なんてないんじゃないですかね。拾われたものってほら捨てられたっていう否定物なわけじゃないですか。なのに、その捨てられたという否定だけを取捨するように、拾うっていう行為より先に自己犠牲のただ真ん中で、私だ!私以外の私がなんだ!って自分を高く見積もってるだけじゃないですか。捨てられた側も、拾う側も。それが私たちが帰還すべきだと思っている自分自身の在り方と、他人との距離をものさししてるんだと思うんです。ほら、そうやってる間にも他人の話ってすぐ忘れちゃうでしょ。湯気がなくなる前に。」